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武蔵野航海記

武蔵野航海記

大日本史

御三家の一つである水戸徳川家の二代藩主である徳川光圀(1628~1700)は非常に個性的な人です。

彼の母は側室で、光圀を懐妊したとき父である初代藩主頼房は流産させるように命じました。

それを憐れんだ家来に匿われてこっそりと生まれ、幼年期はその家来の息子として育てられました。

その後、もう一人秘密裏に生まれた兄とともに父親に認知され、跡継ぎとされました。

兄を差し置いて跡継ぎとされたことが彼の一生の心の重荷になっていたようです。

そこから正統な跡継ぎとはなんだろうという「名分論」に関心を持ち、ついには日本の正統な支配者は天皇であるという信念を持ちました。

また京都の朝廷に強い憧れを持っていて天皇に歌集を献上したり公家たちと親密な交際をしたりしています。

どうも自分の出自に強い劣等感を持っていたようです。

幕府は大名が勝手に朝廷と交際をすることを禁止していますから、朝廷との交際を非常に用心して秘密裏に行っています。

光圀は「自分の主君は天皇であり、徳川の将軍は一族の宗家というだけのことだ」と言っています。

しかし彼の言動を見てみると幕府そのものが正統ではないと思っていたようです。

光圀の時代、幕府は学問の権威によって大名達が将軍に逆らわないようにしようと色々考えていました。

天皇が日本の正統な支配者だと証明できたら、天皇から征夷大将軍に任じられた将軍に逆らうことは謀反人になり幕府に好都合です。

そこで幕府の儒教顧問だった林羅山は、天皇がチャイナの古代王朝の子孫だという話をでっちあげようとしたのです。

儒教で聖人とされているチャイニーズの子孫だったら皆が納得するだろうと思ったのです。

飛鳥時代に律令制度を通して儒教を導入してから1000年も経過していますから、日本人はチャイナに対する劣等感を完全に植え付けられてしまいました。

自分たち独自の正義の概念を作り上げておらず、異国の正義を借用しようという安易な態度の弊害がここまで来てしまったのです。

これを聞いた光圀はさすがに驚いてこの企画を握りつぶしました。

こんな彼が朱子学の大先生である朱舜水と出会って、水戸藩で独自の歴史書を作ろうと考えたのです。

そして彰考館という歴史研究所を作り、「大日本史」の編纂を命令しました。

光圀が作った歴史研究所である彰考館のスタッフには当時の有名な学者をそろえました。

彼らは崎門学派が大部分で幕府の儒教顧問である林家の弟子達ではありませんでした。

林家が天皇家の先祖はチャイニーズだったなどと余りに近視眼的なことを言い出したので信用しなかったのでしょう。

「崎門」とは「山崎闇斎の門人」を略した言葉です。

山崎闇斎の学説は浅見絅斎が受け継ぎましたから、彼らの弟子達を「崎門」というようになったのです。

崎門も儒教の一派である朱子学を信奉していることでは林家と同じです。

しかしどちらも本場の朱子学とは違ってきてしまったことは既に説明しました。

主要なメンバーは安積澹泊(あさかたんぱく 朱舜水の直弟子)、栗山潜峰(せんぽう 闇斎の孫弟子)、三宅観瀾(かんらん 絅斎の弟子)などです。

光圀という人は経済観念がまるでなかったらしく、35万石の水戸藩で歳入の23%にあたる8万石を毎年大日本史編纂事業に投じたのです。

1657年に編纂を開始し、1709年に本紀・列伝という主要な部分が完成し、1720年に幕府に献上されました。

そして1810年に朝廷に献上されましたが、幕府に献上されたものと違って問題部分を削除したものでした。そして一般に売り出されたのは1848年のことでした。

最終的に完成したのは1906年(明治39年)です。

中断した時期もありましたが、250年かかってしまいました。

それはチャイナの儒教の考え方で事情のまるで違う日本の歴史を解釈しようとしたので大きな無理が生じたからでした。

「大日本史」を書くにあたっての編集方針は下記です。

1)日本の正統な支配者は誰かという問題は、朱子学の理論で判断する

2)チャイナの史書の形式である紀伝体を採用する

紀伝体というのは、それぞれの人物の伝記を集めて本にするということですが、天皇は本紀という体裁で書き、臣下は列伝という体裁になります

列伝には天皇の妻や子供、普通の家来、叛臣、逆臣などの小分類があります。

3)各本紀や列伝の最後に「論賛」という編集者の批評を付ける

光圀は日本の正統な支配者は誰かという問題、即ち日本人の正義とは何かということに解答を与えようとして「大日本史」を編纂したのです。

しかしその肝心の日本人の正義にたいして深く考えず異国の基準である儒教を物差しにしようとしたのです。

日本人は1000年の間、政治的なことに関してはチャイナの思想を採用するという習慣になっていましたから、光圀もその習慣から脱することが出来なかったのです。

そういう意味では林家と五十歩百歩です。

儒教の基準を用いるという方針で日本の歴史を書き始めたのですが、問題が次々と出てきました。

室町時代の初め後醍醐天皇と足利尊氏が衝突し、尊氏は後醍醐天皇とは別の系統の天皇を立てました。いわゆる南北朝です。

朱子学では叛臣(反逆した臣下)は正統とは認めないという考え方があります。

尊氏が擁立した北朝の天皇は後醍醐天皇の臣下でしたから叛臣です。

そこで後醍醐天皇の南朝が正統ということになりました。

ところが60年後に南北朝が合体し北朝の系統がその後の天皇になりました。江戸時代の天皇も今の天皇も北朝です。

そこで北朝を叛臣とする訳には行かなくなってしまいました。

それではというので三種の神器を持っていたから南朝が正統だということにしようと考えました。

それでは三種の神器を盗んだものも日本の正統な支配者となってしまいます。

そこで道徳的に優れた者が三種の神器をもった場合に限り正統となるのだというように言い直すと、儒教の立場に戻ります。

そうなると後醍醐天皇のような性格破綻者は正統とは認められません。

そもそも物を所有しているのが正統の証拠だなどという考えは儒教にはありません。

「道徳的に立派で民衆の支持を集めた者が正統な支配者だ」というのが儒教の思想です。

その儒教の一派である朱子学の立場から南朝が正統だという説明は無理なのです。

南朝は日本人の支持を受けていなかったし、道徳的にも退廃していたからです。

他にも問題が起きます。

後醍醐天皇に敵対した尊氏や、鎌倉時代の初期に承久の乱で後鳥羽上皇を配流にした鎌倉幕府の将軍やその家来の北条義時・泰時は叛臣伝に入れるべきです。

ところが彼らが天皇の支配権を奪ったがゆえに叛臣だとすると徳川将軍も叛臣になってしまいます。

幕府という存在が天皇の権限を奪っているものだからです。

結局足利尊氏も北条泰時も叛臣伝には入っていません。

論賛(人物評)では彼らは結構ほめられています。

また幕府の将軍という実質的な日本の支配者を列伝という形式で書くのはおかしいということになり、将軍伝という体裁のものを作りました。

そして列伝のなかに「将軍家臣」というのを作りました。北条泰時などはこの「将軍家臣」に入っています。

将軍の家来と天皇の家来が並んで列伝に入るわけですから、これは将軍を実質的に天皇と同列に置いたということです。

チャイナの儒教では皇帝と同列の家来などありえません。

このように当初予想もしなかった難問が次々と出てきたので、一応の完成まで50年もかかってしまったのです。

そして幕府にも献上したのですが、そこに書かれていた論賛は中途半端なはっきりしないものでした。

それを朝廷にも献上しようとしたのですが、朝廷は北朝の子孫です。

ところが大日本史は南朝を正統としていますから、ここでも悶着が起こりました。

そこでまた修正を加え、論賛を全部削除したものを朝廷に献上するのにさらに90年かかっています。

要するにチャイナとは全く別な思想で動いている日本人の歴史を儒教の原則で説明しようとしたのが間違いだったのです。

もう一つ大日本史の特徴として挙げなければならないのは、第百代の後小松天皇(1377~1433)で記述が終わっていることです。

後小松天皇は南北朝時代最後の北朝側の天皇です。

そして南朝と北朝が合体した時に改めて百代目の天皇とされた人物です。

大日本史は南朝を正統としていますから北朝は偽物です。

その北朝が以後日本の支配者となったということは、ここで日本の支配者が交代したことになります。

ところが日本は天皇家の支配が断絶せず天照大神以来連綿と続いているというのが大前提ですから、この矛盾の説明が難しいのです。

そこで何の説明も無く百代で記述を終えています。

大日本史が一般に販売されたのは幕末の1848年でしたが、論賛も無く退屈な事実の記述だけですから社会に大きな影響を与えたわけではありませんでした。

むしろその編集過程の議論が後の日本に影響を与えたのでした。

栗山潜峰は彰考館のスタッフで大日本史の編纂に従事しましたが、個人的に「保建大記」という本を書いています。

保は保元、建は建久という平安時代末の年号で、権力が朝廷から平家を経由して源氏に移行した理由を述べている本です。

また同じく彰考館のスタッフだった三宅観瀾(かんらん)は「中興鑑言」を書いて、何故後醍醐天皇の建武の中興が失敗したかを説明しています。

「保建大記」も「中興鑑言」も権力を失った後白河法皇と後醍醐天皇を徹底的に非難にています。

保元の乱は崇徳上皇と後白河天皇という兄弟の争いに藤原氏と源氏・平家を巻き込んで起こったものです。

ところが崇徳上皇と後白河天皇は本当の兄弟ではありません。崇徳上皇は系図上の父である鳥羽上皇の本当の息子です。

ところが後白河天皇は鳥羽上皇の后と祖父である白河上皇の間の不義の子供だったのです。

つまり鳥羽上皇から見れば、崇徳は息子だが後白河は叔父ということになります。

白河- 堀川 - 鳥羽-崇徳
  |       |
  ― 後白河 -(後白河)

鳥羽は、後白河の子孫には絶対に帝位を渡すものかと頑張り、合戦になってしまったのです。

源氏は親子に分かれて戦いましたが、息子の義朝は勝った後白河に味方していました。

戦後、後白河は義朝に対し父である為朝の首を斬れと命令します。

義朝は泣く泣く親を斬りました。

親を殺した義朝は平治の乱で負けて逃げる途中で譜代の家来に殺されています。

主君が不道徳なので家来も主君を殺すのをなんとも思わなくなったのだと「保建大記」は説明しています。

儒教では親を殺すというのはなんとも表現ができないほど悪いことです。

命令されて親を斬った義朝も義朝ですが、こんな命令を出した後白河はとんでもない男です。

だいたいそのひい爺さんである白河の異常な好色さが問題の発端です。

このときの皇室の男達は皆アホかと潜峰は口を極めて非難しています。

上に立つ天皇や上皇が破廉恥なことをするから下の家来達も道徳を守らなくなったのだというわけです。

このようにして日本全体が道徳を守らなくなり、天皇を無視するようになって武士に権力が流れていったのだというのが潜峰の結論です。

後醍醐天皇は統治者としての教育を受けておらず、帝王意識だけでそれを維持するための責任感がない性格破綻者だったと「中興鑑言」で非難されています。

また謙虚に歴史を学ぶことをせず北条氏に対する復讐心だけで行動し、しかも女の言葉に惑わされた最低の天皇だと観瀾は評価しています。

結局当時の倫理観や常識を無視したから、武士達から見放されたのも当然だという結論です。

「保建大記」と「中興鑑言」の二書は余りに天皇に対する非難が厳しいため、明治政府はこれらが表に出ないようにしています。

潜峰も観瀾も天皇家が徳を失ったから権力を失ったと考えています。

儒教の考え方からは当然の結論です。

本場の儒教であればここで支配者の交代が起こり、徳川が新しい日本の天子となったと解釈します。

しかし崎門学派は湯武放伐論を認めていません。

神代の昔から続いている天皇家が正統だという血統の論理を採用しています。

潜峰も観瀾も崎門ですから支配者の交代を認めるわけにはいきません。

従って破廉恥な天皇によって一時的に支配権を失ったが潜在的な支配権は未だに保持していると考えるのです。

これからも分るように日本の朱子学は本場の儒教とはまるで違うものです。

朱子学だけでなく国学でも石田梅岩が始めた心学でもさらには仏教でも、天皇が潜在的な支配者だという考え方では同じでした。

結局「支配者は道徳的に立派でなければならない」という儒教の基本原理は日本に根付きませんでした。

幕末になり尊王論が盛んになると、「君 君たらずとも 臣 臣たれ」という天皇の臣下としての義務が強調されてきました。

志士たちは自分たちと古代チャイナの文王を重ね合わせるようになったのです。

周の文王は殷の紂王という悪逆な王の家来でした。

彼は無実の罪によって幽閉されましたが、主君の紂王を怨まずに家来としての勤めを立派に果たしました。

この文王のように自分たち天皇の家来は天皇がどんなに不道徳でも家来としての義務を果たさなければならないと考える様になったのです。

こういう雰囲気の中で、この二書は勤皇の精神を鼓舞する書として人気が出てきました。

「靖献遺言」とともに多くの志士に読まれた本だったのです。

幕末になりこのような考えが日本人の常識になった時、ヨーロッパ諸国の軍艦が日本にやってきました。

彼らは日本に通商を迫ったのですが、鎖国が徳川幕府の基本原則です。

日本の体制が脅威にさらされ、国家の独立も脅かされる事態になり、騒然とした世の中になりました。

そしてこのような時に水戸学が発生したのです。


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